ヴィゴツキー心理学を少しずつ読み進めていくことに

ヴィゴツキー心理学 「最近接発達の領域」と「内言」の概念を読み解く 中村和夫新読書社

ずっとヴィゴツキーを読みたかったので、いい機会と思い、しっかり読み込むことにした。この本は、やさしく書いてあるとは思うが、ヴィゴツキー素人の私にはかなり難解である。教員向けのものにすればよかったと少し後悔している。こういう場合は、しっかりゆっくり読むことで自分の中に染み込ませることができる。

「1人で課題をクリアしてもそれは「できた」ことにはならない。仲間と一緒に取り組んで「できた」ことが「できた」という。」のが、発達の最近接領域であるという間違った解釈をしていた自分に気づくことができた。

作者の中村和夫は冒頭で、ヴィゴツキーの原文のロシア語から解釈して、「発達の際近接領域」より「最近接発達の領域」とした方がいいと提案している。

最近接発達の領域とは、子どもがある課題を独力で解決できる知能の発達水準と、大人の指導の下や自分より能力のある仲間との共同でならば解決できる知能の発達水準との隔たりをいう。そして、この隔たりは、今は大人や仲間の援助のもとでしか課題の解決はできないが、やがては独力での解決が可能となる知的発達の可能性の領域を意味している。

少し難しい記述だが、「子どもが伸びるだろう『のびしろ』の部分」を個人で活動しているときとグループや先生と活動しているときで観察し、その「のびしろ」の発達の可能性の領域のことだろうか?

学齢期は教授の最適な時期であり、自覚的で随意的な機能に最大限立脚しているような教科に対して敏感な時期である。教科の教授が、最近接発達の領域に存在する高次心理機能の発達のための最良の条件となるのである。

学校教育が学齢期に行われることの大切さが書かれている。やはりこの時期に学校に行かないと、心理機能の発達に支障をきたす可能性がある。

教師ーそれは科学の社会的知識の代表者なのである。

私たちの最高の文化的達成である科学的知識の体系を子どもが教授され、それを習得する過程で子供の内面に生ずる科学的概念体系の発達こそが、実は、子どもにおける自覚性と随意性の発達、換言すれば、高次心理機能の発達の実態だからである。

科学的知識は体系化されていて、学校で学ぶべき知識である。それが心理機能の発達に大きく寄与する。

学校での教授ー学習過程をとおして、子どもには、自然発生的に習得されている生活的概念群と、意識的に習得されつつある科学敵概念体系との間での相互浸透が生ずる。この相互浸透の過程が、いわゆる生活的概念と科学的概念の内的な統一的発達過程である。

生活的概念は自然に習得されるもの。生活しているうちに身についていく概念であり、科学的概念は学校教育で体系的に習得されるものである。両方がともに習得されていくことで、内的な統一発達が起こる。

この章には、内言についての記述がある。

内言とは、内面化された(声に出されない、頭の中で展開される)言葉のことである。この内言によって、人間は前もっと頭の中で必要な行為を計画し、その計画に従って自らの行動を調節する。この場合、言葉は内的な記号として思考を媒介しており、このような内言に媒介された思考のことを、言語的思考と呼んでいる。言語的思考の発達には大きく「複合的思考」の段階と「概念的思考」の段階がある。

内言とは、言葉に表さず、頭の中で考える言葉である。内言の概念形成が外的な思考や言語の表出に大きく関係している。

概念的思考では、犬と鶏と小麦と庭木は生物という抽象化れた、単一の本質的な特徴で結合され、ひとつにまとめられる。複合的思考では、これらはみな地主のペトロフのものであるということで、ひとつにまとめられる。

ヴィゴツキーの文化-歴史的理論では、様々な高次心理機能の発達の最も中心に位置するものは、概念的思考である。内言に媒介された言語的思考が複合の段階から概念の段階へと発達し、それに基づいて他のすべての心理機能が再編され、文字通りの高次な心理機能へと転換していくのである。

科学的概念は子供が学校で科学的知識の体系を習得することにより発達するが、生活的概念は子供の個人的なけい生活的概念は子どもの個人的な経験の中で、体型性を書いたまま発達するということである。

自由な支配(随意性)

書き言葉では、無自覚に用いられていた話し言葉から言葉の体系的構造(文法)を抽出し、認識し、その随意的な活用によって初めて筋道だった文章が可能になる。文法や代数概念の習得は小学校高学年から中等教育にかけての対象であり、まさに思春期の発達課題である。このような真の概念に媒介された概念的思考の発達は、思春期にもたらされるのである。

ヴィゴツキーは言語的思考の発達の最終段階(概念的思考の段階)に、人間的に最も高次な意識・人格の発達を展望していたのである。ここにこそ、「言語的思考の発達論は人格論である」ということのゆえんがある。

完全に定まった普遍の内容、文脈に依存しない一つの内容、これが語の「意義」である。語の「意味」は状況とともに絶えず変化し、意義をはるかに越えて、いわば無尽蔵の豊かさを持つわけである。

語の「意味」は文脈とともにあり、従ってその内容をあらかじめ限定できないのである。かくして、語の「意味」は無尽蔵である、語の意義に優越しているのである。

内言の意味論の第一の特質は、まさに内言においては語の「意味」が後の意義に優越しているということ、内言は凝縮された「意味」の塊を構成している。

うーん、やっぱり難しい。もう少し簡単に書かれていて、現代の教育への応用について書かれているものも読まないと。