
「どうせ無理」に負けない心を育てる
~中学1年生 道徳「どうせ無理という言葉に負けない」~
「どうせ無理。」
教師をしていると、この言葉を子どもたちから聞くことがあります。
「難しいから無理。」
「やっても意味がない。」
「失敗するに決まっている。」
でも、本当に「無理」なのでしょうか。
今回の道徳では、東京書籍『新しい道徳1』に掲載されている、植松努さんの教材「どうせ無理という言葉に負けない」を扱いました。
イスラマバード日本人学校、中学1年生2名との授業です。
今回も、生徒たちの心が大きく動く、とても印象深い授業になりました。
「どうせ無理」と言ってしまうのは、どんなとき?
授業の導入では、まずこんな問いを投げかけました。
「『無理』『やるだけ無駄』と言ってしまうことはありますか。そのとき、どんな気持ちですか。」
二人とも素直に答えてくれました。
一人は、
「面倒くさいことはやりたくないから、『無理』と言ってしまうことがある。」
もう一人は、
「実はできそうな気もする。でも失敗したら恥ずかしいし、笑われるかもしれない。だから最初から『無理』と言っておけば安心できる。」
と話してくれました。
なるほどと思いました。
「どうせ無理」という言葉は、本当に無理だからではなく、
失敗することへの不安や、自分を守るための言葉なのかもしれません。
植松努さんという人
教材の主人公である上松努さんは、北海道赤平市にある町工場「植松電機」の代表として知られています。
もともとは電気設備や重機関連の仕事をしていましたが、「どうせ無理」という言葉に疑問を抱き、宇宙開発への夢をあきらめませんでした。
「ロケットは大企業しか作れない。」
「町工場には無理だ。」
そんな周囲の声があっても挑戦を続け、やがて小型ロケットの開発や宇宙教育の分野で世界的にも注目される存在となりました。
植松さんが伝え続けているのは、
「どうせ無理」という言葉は、人の夢を奪う。だから私は『だったら、こうしてみたら?』という言葉を大切にしたい。
というメッセージです。
残念だなと思うところは?
本文を読む前に、いつものように課題を出しました。
- 残念だなと思うところには波線
- 素敵だなと思うところには直線
を引きながら読みます。
ところが今回は、
「残念だなと思うところはありません。」
という答えでした。
それだけ植松さんの生き方に共感したのでしょう。
一方で、「素敵だな」と思った場面は二人ともほぼ同じでした。
「どうせ無理」と言うのではなく、
「じゃあ、こうしてみよう。」
と仲間に声をかける場面です。
否定ではなく、可能性を示す。
その姿勢に、生徒たちは強く心を動かされたようでした。
どうして挑戦し続けたのだろう
最初の発問です。
「『どうせ無理』と言われても、植松さんはなぜ挑戦し続けたのでしょう。」
二人とも、
「絶対にあきらめたくなかった。」
「次へ進もうという気持ちが強かった。」
と答えました。
さらに、
誰も手を出さないロケット開発を始めたときの気持ちについて尋ねると、
「まず自分がやってみせようと思った。」
「見てろよ、という気持ちだったんじゃないかな。」
という意見が出ました。
失敗を恐れるのではなく、
まず自分が一歩踏み出す。
その姿を、生徒たちなりに感じ取っていました。
「だったら、こうしてみたら?」
次の発問では、
「『どうせ無理』と言う人に、植松さんならどんな言葉をかけるだろう。」
と考えてもらいました。
二人とも、
「無理で終わらせたら何も始まらない。」
「回り道をしても、自分は成長できる。」
「やってみたら、その先が見えてくる。」
そんな言葉を挙げていました。
「できる」「できない」ではなく、
「やってみよう」。
そこに植松さんの思いがあることを理解していたようです。
ロールプレイで見えた本音
授業の最後には、いつものようにロールプレイをしました。
生徒Aが上松さん。
生徒Bが社員役です。その後、入れ替わって、もう1回やります。
「ロケットなんて無理ですよ。」
「町工場にできるわけありません。」
そう言われる場面から始めました。
最初は、
「やっぱり無理です。」
と言っていた生徒も、
話を続けるうちに、
「ちょっとやってみようかな。」
という気持ちに変わっていきました。
もう一人も、
「本当はやってみたい。」
「でも失敗したら恥ずかしい。」
という本音を口にしていました。
ロールプレイだからこそ、
心の奥にある葛藤が自然に出てきたのだと思います。
新しいものを生み出すために
最後に尋ねました。
「新しいものを生み出すためには、どんな思いが必要ですか。」
二人とも、
「勇気。」
「一歩踏み出す気持ち。」
「最後まであきらめない心。」
と答えてくれました。
そして、授業の最初に聞いた質問をもう一度しました。
「『どうせ無理』と言ってしまう気持ちは変わりましたか。」
一人は、
「前より『やってみよう』と思えるようになった。」
もう一人は、
「気持ちは大きくは変わらないけれど、『どうせ無理』と言ってしまう自分は少し情けないと思った。」
と話してくれました。
どちらも正直な答えです。
無理に変わる必要はありません。
でも、自分の心を見つめることができた。
それだけでも、この授業には大きな価値があったと思います。
「どうせ無理」は、未来を閉ざす言葉
植松さんは講演の中で、
「『どうせ無理』という言葉は、人の可能性を奪う言葉です。」
と語っています。
その代わりに、
「だったら、こうしてみたら?」
という言葉を大切にしてほしいと言います。
教育も同じではないでしょうか。
先生が子どもの可能性を信じること。
子ども自身が、自分の可能性を信じること。
その小さな一歩が、大きな未来につながっていくのだと思います。
今回もまた、生徒たちの本音に触れ、心が少しずつ動いていく瞬間に立ち会うことができました。
私は改めて感じました。
道徳の授業は、答えを教える時間ではありません。
子どもが、自分自身の未来を少しだけ信じられるようになる時間なのです。








