「ハンチバック」を読んで

「ハンチバック」市川沙央著 文藝春秋 第169回芥川賞受賞

本の帯には、「井沢釈華の背骨は右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲している。両親が終の住処として遺したグループホームの、十畳ほどの部屋から釈華は、某有名私大の通信課程に通い、しがないコタツ記事を書いては収入の全額を寄付し、18禁TL小説をサイトに投稿し、零細アカウントで「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」と呟く。ところがある日、グループホームのヘルパー・田中に、Twitterのアカウントを知られていることが発覚しー。」とある。

のっけから性的な興奮を感じさせる描写が続く。「こんな物語なんだ!?」と先行きがどうなるのか全く想像がつかなかった。「芥川賞受賞」「遠位性ミオパチーの作者」という殻と前評判に取り憑かれてしまっていて、思い込んでしまっていた。

題名の「ハンチバック」とは、「背の曲がった」という表現を表し、主人公の女性(作者)の体の状態でもある。ミオパチーを発症してから、病気の進行とともに、背がS字に湾曲している姿を描写している。冒頭の性的な描写やラストの風俗店での描写は、そうなりたいと夢見ている願望を文書にし、雑誌、ブログ、ネット記事などに投稿している仮の姿である。

印象的な部分が数カ所ある。

完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の体は歪に壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる。生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の体は生きるために壊れてきた。生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。

「生きるために壊れる。」というセリフがとても印象的である。とても苦労して努力して毎日懸命に生き抜いた結果、いろんな部分がすり減って壊れていく。だから、美術館などの所蔵されている年月を得た完成品が嫌いなのだろう。美しい姿で残っているから。しかも歴史を重ねれば重ねるほど価値が出る。作者の「生き抜いた時間の証として破壊されていく」こととは全く正反対である。

知り合いで作者と同じ「遠位性ミオパチー」の方がいる。とても素敵な絵を描かれていて、市主催のお祭りのポスターにもなっていた。少しお話をお聞きする機会があったのだが、体が思うように動かせないことがある分、「毎日楽しく生活していますよ。」と笑顔で会話が本当に上手だった。いろんなことに挑戦してみようとする好奇心とやる気に満ち溢れていた。「ミオパチー」の病気の説明もしていただいた。

壁の向こうの隣人が乾いた音で手を叩く。私と同じような禁疾患んで寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーを手を叩いて呼んで後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない。

とても印象に残ったフレーズ。人間の尊厳とは一体何だろう。

自らで命を経ってしまう人がいる中で、天命を全うするまで必死に生きること。どんな状態であろうが、なりふり構わず、生に執着すること。それで理想郷に辿り着ける。作者はまだその世界を知らない。私も作者の立場ならそこまで考えられない。きっと勇気が湧いてこない。

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