
【授業記録】「神回」となった道徳授業の記録 〜友情における“お節介”の価値を問う〜
4月に学年の先生方への見本として道徳の授業を先行実施し、5月には市内公開授業として全校の先生の前で授業を行いました。それ以来、約1か月ぶりの道徳授業でしたが、今回の授業は、図らずも「神回」となりました。
● 導入の問いかけ:「あなたは、友達にとってどんな存在でありたいか?」
「頼ってもらえる存在でいたい」「相談されるような存在になりたい」といった声が多く聞かれ、生徒の中に“友情のあり方”を自分事として捉える土壌ができたことを感じました。
● 教材音読:主人公「僕」の素敵なところと残念なところに注目
本文の音読では、私自身が感情を込めて読み、生徒たちは「主人公の『僕』の残念なところと素敵なところ」に線を引きながら聞くという形式を取りました。読み終えた瞬間に自然と拍手が起きたことが、まずは一つの成功の証でした。
● 印象的な生徒の視点:距離感と“深入り”の対比
「素敵なところ」として、「みんなと距離感をとるところ」「深入りしないところ」という声が出た一方で、健司のように「深入りしてでも支えようとする姿勢」が賞賛されたのが非常に興味深い点でした。
この矛盾に気づいた私は、「どちらのような友達がふさわしいと思うか」と問い返してみました。多くは健司を選びましたが、一定数「『僕』のような距離感を保つ友人が良い」という意見もありました。友情のあり方に“正解”はないということを、子どもたち自身が考え始めるきっかけになったと感じました。
● 考えさせられる発言:「お節介の本当の価値」
「お節介だとわかっていながら、耕平に『言え』と言った健司の気持ちは?」という問いに対しては、
- 「困っているのに、なぜ言ってくれないんだ」
- 「もっと頼ってほしい」
- 「1人で抱えないで、吐き出してほしい」
など、温かな気持ちのこもった意見が多数出ました。
最後に「『僕』が健司からもらった大切なこととは?」と問いかけると、多くの生徒が「態度」「行動」「寄り添う姿勢」など、健司の生き方そのものを挙げてくれました。
● まとめ:「鬱陶しいお節介」も、時には必要
現代では、お節介な存在が減り、無機質な関係性やネット・仮想空間での繋がりが増えています。だからこそ、「鬱陶しい」と思われるほどのお節介をやく存在も、実は今の社会に必要なのではないかという問いを最後に投げかけました。
すると、休み時間には友達同士で集まって、自分の意見を語り合う姿が見られました。教師が立ち去ってもなお続く“語り”こそ、この授業が生徒たちの心に残った証だと思います。
まさに「神回」と呼ぶにふさわしい授業でした。