「浅田家」を観て

 楽しみにしていた「浅田家」を観てきた。普段、特別支援教育やキミヤーズを一緒に勉強している先輩が、エキストラで出演しているらしかった。主人公の写真家 浅田政志さんは、津市出身。育生小学校の卒業生と言うことは、私や私の連れ合いの後輩である。高田本山や津新町駅がロケ地として使われており、不思議な感覚だった。ストーリーは以下の通り(映画.comより)。

 様々なシチュエーションでコスプレして撮影するユニークな家族写真で注目を集めた写真家・浅田政志の実話をもとに、二宮和也と妻夫木聡の共演、「湯を沸かすほどの熱い愛」の中野量太監督のメガホンで描いた人間ドラマ。4人家族の次男坊として育ち写真家になった主人公・政志を二宮、やんちゃな弟をあたたかく見守る兄・幸宏を妻夫木が演じ、家族の“愛の絆”や“過去と今”をオリジナル要素を加えつつ描き出す。浅田家の次男・政志は、父の影響で幼い頃から写真に興味を持ち、やがて写真専門学校に進学。卒業制作の被写体に家族を選び、浅田家の思い出のシーンを再現した写真で学校長賞を受賞する。卒業後しばらくはくすぶっていたものの、再び写真と向き合うことを決意した政志が被写体に選んだのは、やはり家族だった。様々なシチュエーションを設定しては家族でコスプレして撮影した写真で個展を開催し、写真集も出版され、権威ある賞も受賞する。プロの写真家として歩み始めた政志は、全国の家族写真の撮影を引き受けるようになる。しかし、2011年3月11日、東日本大震災が発生。かつて撮影した東北に住む家族のことが心配になった政志は被災地に足を運ぶが、そこで家や家族を失った人々の姿を目の当たりにする。

2020年製作/127分/G/日本
配給:東宝

 家族の大切さ、人の命の尊さ、写真を通じて人と関わっていくことがどんどん人と人をつなげていくことになる。

 東日本大震災の被災地で、浅田さんは、震災で行方不明になった写真を集め、人に返却するボランティアをする。泥を落としてきれいにしてから、板に貼り付け、展示することで、避難してきた人たちが見やすいようにしていた。8万枚の写真のうち6万枚を返却することができたようだ。

 私も、2011年4月、5月、2012年3月と3回にわたって、被災地にボランティアに行った。壮絶な環境の中で、一生懸命生き続けている人たちと触れ合うことで、たくさんの元気や勇気ややる気をもらうことができた。被災地で働いて、たくさんのありがとうをもらったが、ありがとうと言いたいのはこちらの方だった。

 たくさん経験をすることはいいことだなとしみじみ感じた。人との触れ合いが増えていくし、人との関わりから人脈が増えていく。

 何度も涙したシーンがあった。大泣きするところは無いが、ぽろっと涙が溢れるところはいくつもある。

 かなりオススメである。津市出身者や在勤者、居住者は見るべき。

「一人称単数」を読んで

「一人称単数」村上春樹(文藝春秋)

 「猫を捨てる」という短編集を読んでから、半年くらいで出版されたので、他の作品を読み返さなくても、村上春樹に餓えなくてもいいから、気持ちが楽だ。

 村上春樹を読む時はいつもそうだが、終わってしまうのがもったいないので、読みたくても自分でリミットを決めて、そこまでしか読まないようにしている。なんなら、別の本も並行して読み、続けて読みたい欲求をその別の本にぶつけていることもある。

 つまらない本は、「まだ50ページか!?」とため息まじりにページ数をたぐることも多いが、村上春樹の場合は、「あと100ページもある!!」と喜んだり、「あと50ページしかない!!」と嘆いたりすることもあるくらい、終わりを待ち望まない自分が居る。

 今回も短編集である。8篇の作品が収蔵されている。

 ご自身が経験されたような話や実際に聞いた話、どれも引き付けられるようなことが多い。女性についての話が多く、どれも面白かった。

 俳句をしているバイト先で一緒になった女性、ピアノ教室で一緒に連弾をしたことのある女性、醜い女性、恥を知りなさいと罵る女性

 不思議に自分の若い頃のことをたくさん思い出す。フラッシュバックしてくる。この物語の世界に入り込んでしまっている。しかし、主人公になるのではなく、物語の展開とともに歩いている主人公とは別人の自分が歩いている。しかも、自分の思い出を抱えながら、ストーリーと同一歩調で歩いている。フラッシュバックしている出来事が決してストーリーを凌駕することなく、自分がストーリーに入り込んでいくので、不思議な気持ちになる。

 これは村上春樹の小説を読むときにいつも自分が味わう経験である。それが村上春樹が好きである理由なのかもしれない。

 猿の話、スワローズの話、

 私が大好きなお酒もたくさん出てくるし、クラシックも好きなのだが、ちょくちょく話に出てくる。猿は「ブル7」が好きらしい。私もブルックナーの交響曲第7番は好きだ。

 全ての短編は「文學界」という雑誌で書かれたものが収録されているのだが、最後の「一人称単数」だけが書き下ろしであった。

 「一人称単数」はとても変わった話である。ストーリーはおいとくとして、その話の主人公の中年男性(多分村上春樹であると思われるが)は、滅多に着ない高級スーツを着てバーで読書をしているときに、バーカウンターの奥にある鏡に写し出された、ここにいる鏡に写っているのはだれなのかという疑問に襲われる。「人生を生きてきて、分かれ道がいっぱいあった。右にも左にも行けた。自分でどちらに行くか選択したわけだが、どっちにも行けた。どちらでもよかった。時には、向こうから私を選択したこともあった。いろいろあったが、今私はここにいる。いったい私は誰なのだろう。」とこんな趣旨の語りがある。

 私もわからなくなることがある。パイロットになるか先生になるかで悩んだことがある。先生になっていなかったら今の幸せな生活は存在しない。いろいろな道が複雑に入り混じっている。過去を肯定すると現在は存在しなくなってしまう。たくさんの枝のあるあみだくじを複雑に行ったりきたりしながら、当たりにたどり着いたようなもの。今いる自分は試行錯誤の連続で生まれた産物で、きっと将来の自分もたくさんの選択肢から自分の意思や強制力が働いて選ばれて出来上がった自分になるのだろうと思う。ただ、加齢とともに選択肢の本数は年々減っていくことだろうが。

 おもしろかった。やはり、村上春樹である。