「幸せになる勇気 自己啓発の源流 アドラーの教えI」 岸見一郎 古賀史健 ダイヤモンド社
アドラー心理学の概要を知るために、読んでいる。「嫌われる勇気」に続く続編。この「幸せ」は、「嫌われる」の内容をたくさん含んでおり、忘れかけていた部分も思い出させてくれていた。
「三角柱」の話を少し前にブログに書かせてもらったが、それもこの本に書かれていたものだ。
課題の分離 自分の課題と他者の課題に切り分けること。そして、他者の課題には踏み込まないこと。「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない。」「他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない。」「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?」
アドラー心理学の掲げる目標 【行動面】①自立すること ②社会と調和して暮らせること 【心理面】 ①私には能力がある、という意識 ②人々は私の仲間である、という意識
他者の関心ごとに関心を寄せること。これは、教育で言うと、ただ「子どもたちの関心ごと」に関心を寄せること。そして、これは、あらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩である。「共感」を持つこと。共感は他者に寄り添うときに必要な技術であり、態度である。
臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する。
「いまの自分に満足していない」 いまの自分に満足していないと、過去の辛い経験を持ち出して、理想に自分には程遠い「いまの自分」を正当化している。
「人を叱ってはいけない(褒めてもいけない)」人を叱ってはいけないのは、「それが悪いことだと知らなかった可能性があるから」。知らないことは教えるだけ、そこに叱責の言葉はいらない。褒めてはいけないのは、良いことだと知ってやるのではなく、褒められるからするという思考に陥ってしまうから。
問題行動の「目的」第1段階「称賛の欲求」褒めてくれる人がいなければ適切な行動ができない、または、罰を与えてくれる人がいなければ不適切な行動を取るというライフスタイル(世界観)を身につけてしまう状態。第2段階「注目喚起」褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろうという状態。いいことでも悪いことでも目立って注目を引こうとする。第3段階「権力争い」「反抗」「不服従」大人に権力争いを挑んでくる。ただ不服従や反抗を決め込むことで、自らの「力」を証明したい。そのような場合は、すぐさま彼らのコートから退場する。反抗や不服従に対する叱責はその叱責のボールをまた反抗や不服従で返してくる。とにかくその場から退場すること。第4段階 「復讐」もっと注目して欲しいとなりそれが叶わないとなると、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる。そうなると、正面切って戦うことを選ばず、「悪いこと」をするのではなく、「相手が嫌がること」を繰り返す。第5段階 「無能の証明」「これ以上私に期待しないでくれ」「私を見捨ててくれ」という状態で、大人が手を差し伸べれば述べるほど、極端な方法で「無能な証明」をしてくる。こうなると、専門家の手を借りないと収束できない。この問題行動5段階のすべては、「所属感」、つまり「共同体の中に特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。精神的も物理的にも安心安全な居場所づくりを学校やクラスにしてやることが最優先であることがわかる。心の居場所づくり。役割を与えてやることも大切。
幸福の本質は、「貢献感」である。「先生のおかげで無事卒業することができました。」と感謝を求めるのはおかしい。自分の力で成し遂げたと思えるように、環境や方法を伝達し、援助してやることこそ教師の役割である。自分の人生や日々の行いは全て自分で決定するものだと教えることも。
共同体は褒賞を目指した競争原理に支配される。「褒められること」が優先される共同体には、競争が生まれる。我先に褒められたいし、リーダーの寵愛を独占したくなる。学級全体に競争原理が蔓延することに問題がある場合がある。その場合、共同体そのものを治療する必要がある。賞罰をやめ競争の芽を一つずつ摘んでいくこと、学級から競争原理を失くしていくことが必要である。競争原理を優先する「縦の関係」を排除し、協力原理を優先する「横の関係」にしていくこと。これはアドラーでは、「民主主義の心理学」という。
アドラー心理学では「承認欲求」を否定する。他者から認めてもらうことを願うばかり、他者の要望に沿った人生を生きることになってしまう。他者の人生を生きくることになってしまうから。
「依存」と「自立」自分の価値を他者に決めてもらうことを「依存」と言い、自分の価値を自ら決定することを「自立」と言う。「普通でいることの勇気」が足らないと、他者からの承認を欲求してしまう。「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く。
叱ってもいけないし、褒めてもいけない。叱ることや褒めること、すなわち賞罰は子どもの「自立」を妨げる。叱ることはお互いの「尊敬」を毀損することになる行為であり、怒りや叱責は、それほどのコストの低い、未熟で暴力的なコミュニケーションの手段である。褒めると集団の中に競争原理が生まれ、褒められることしかしなくなる。「他者は敵である」というライフスタイルを植え付ける。賞罰とは、子どもを支配下におこうとする行為であり、それに頼る大人は子どもが自立することを恐れている。「いつまでも子どもであってほしい」それゆえに賞罰で縛り付ける。
「すべての悩みは、対人関係の悩みである。」仮に宇宙に自分1人だけだったら、悩みは起こらない。逆に、人間関係の喜びも対人関係から生まれる。
「信頼」とは、一切の条件をつけずに相手を信じること。「信用」とは、条件付きで相手のことを信じること。
利己心を追求した結果、利他につながる。他者貢献につながる。誰1人として犠牲にしてはいけない。どんな仕事に就くのかが問題ではなく、どのようにその仕事に取り組むかが問題である。
尊敬とは、「その人をありのままに見ることである」、そして、「その人がその人であることに価値を置くこと」である。他者のことを信頼できるか否かは、その他者を尊敬できるかどうかである。
不可分なる私たちの幸せを築き上げること。わたしの幸せではなく、あなたの幸せでもなく、私たちの幸せを1番に考えること。私たち2人が幸せでなければ意味がない。利己的でもあり、利他的でもある。本当の愛を知った時、「わたし」だった人生の主語は「私たち」になるのです。幸福なる「生」を手に入れるためには、「わたし」は消えてなくなるべきです。
自立とは自己中心性からの脱却である。自立とは子ども時代のライフスタイルから脱却することである。
一般的に末っ子は、家族の誰とも違った道を選ぶ。第一子は、「過去の崇拝者」となり、保守的な、未来の悲観的なライフスタイルの形成者となる。第二子は革命を起こす。一人っ子の場合、母親を独占したいので、父親をライバル視し、マザーコンプレックスになることが多い。単独子しか持たない夫婦の多くは、人生に臆病で、悲観的である。家庭内の雰囲気も不安に満ちており、たった1人の子どもに過大な重圧をかけ、苦しめることになる。
誰かを愛するということは、単なる激しい感情の表出ではなく、自らの決意、決断、約束である。そして、結婚とは「対象」を選ぶことではなく、自らの生き方を選ぶのである。運命とは自らの手で作り上げるもの、運命に踊らされてはいけない。運命は自ら求め、運命の主役でなければならない。
踊ること。「いま」をダンスする、。ダンスのことを「2人の人間が共同の仕事に参加する遊び」である。今日という日の幸せを、いまという瞬間だけを直視しして、クルクルと踊り続ける。そばにいる人の手を取り、いまの自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。運命は、そこから始まる。
我々は他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放される。他者を愛することによってのみ、自立を成し得る。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどり着く。愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば、変わる。生きている、ただそれだけで貢献しあえるような人類の全てを包括した「わたしたち」を実感する。「愛し、自立し、人生を選べ」
前作にも、「ダンスをする」という言葉が登場する。「いま」をダンスする。
前回は全くイメージできなかったが、今回はなんとなくイメージできている。
何が起こるかわからない毎日において、「あ、こんなことがあった。嫌だな。明日からもこんな嫌なことが続くのかな!?」「もうすぐ〇〇が終わる、終わると楽になるかもしれない。」
起こってしまったことは過去のことで、もうどうやっても取り返しがつかない。そんな取り返しのつかないことに一喜一憂しても仕方がない。これからどうするかがとても大切。三角柱の話と一緒である。
まだ起こってもいない未来のことを悲観的に考えることもどうしようもないことである。楽観的に考えるのも変。
いま目の前にあることに対して、一生懸命取り組むことが最も大切であるということが、「ダンスをする」ということではないだろうか。しかも、柔軟に取り組むこと。目の前のことは、自分の対応の仕方次第ではいかようにも変わっていく。素敵な軌道が描けるように柔軟に「今起っていること」に取り組んでいくことが大切。