「成瀬は都を駆け抜ける」を読んで

「成瀬は都を駆け抜ける」宮島未奈著 新潮社 2025年12月1日初刊

『成瀬は都を駆け抜ける』

― 成瀬、ありがとう。そして、また会える日を信じて ―

宮島未奈さんの『成瀬は都を駆け抜ける』(新潮社)を読み終えました。

『成瀬は天下を取りにいく』。

『成瀬は信じた道をいく』。

そして待望の第三作。

私は一作目を読み終えたときから、「成瀬には、まだまだ続きを書いてほしい」と思っていました。

ですから、この第三作が刊行されると知ったときは、本当にうれしかったです。

そして読み終えた今、もっと複雑な気持ちになっています。

なぜなら、この作品は成瀬あかりシリーズの完結編だからです。著者自身も「これで完結です」とコメントしています。  

寂しい。

でも、とても幸せな読書でした。

成瀬はどこへ行っても成瀬だった

舞台は京都。

京大生になった成瀬は、新しい仲間と出会い、新しい世界へ飛び込んでいきます。

しかし、環境が変わっても、成瀬は少しも変わりません。

自分のペースで生きる。

人に合わせるのではなく、自分の信じることを淡々と続ける。

それでいて、周りの人を自然と巻き込み、気づけば誰かの人生を少しだけ変えてしまう。

今回もそんな「成瀬らしさ」があふれていました。

成瀬は主人公なのに、主人公ではない

このシリーズの一番好きなところは、実はここです。

物語はいつも、成瀬本人だけを描いているわけではありません。

成瀬と出会った人。

成瀬に影響を受けた人。

成瀬を見つめる人。

そうした一人一人の視点から描かれることで、成瀬という人物が立体的に浮かび上がります。

まるで太陽のように、本人は特別なことをしているつもりはないのに、周りの人の軌道を少しずつ変えてしまう。

それが成瀬なのだと思います。

心がぽかぽかする物語

私が特に好きだったのは、「やすらぎハムエッグ」の物語です。

大学生活の中で少し寂しさを抱えていた主人公が、成瀬と出会い、思いもよらない交流が始まります。

成瀬は毎日朝ごはんにハムエッグを食べている。

そんな何気ない会話から物語が動き始めるのですが、読み終わった後は、寒い冬の日に温かい飲み物を飲んだような気持ちになりました。

成瀬は決して励ますわけでも、慰めるわけでもありません。

ただ、そこにいるだけ。

でも、その存在が誰かを前向きにしてしまう。

そんな力を持っています。

個性的な登場人物たち

今回も魅力的な人物が次々と登場します。

「達磨研究会」という不思議なサークル。

簿記YouTube、ぼきののか

観光大使の活動。

そして、シリーズおなじみの島崎をはじめ、これまでの登場人物たちも顔を見せてくれます。

まるで同窓会のようでした。

「あ、この人も出てきた。」

そんなうれしさが何度もありました。

「そういう子なので」

今回、一番心に残った言葉があります。

それは、

「そういう子なので」

という一言です。

子どもの頃から、成瀬は「変わった子」と言われ続けます。

でも、お母さんはその個性を否定しません。

「そういう子なので。」

たった一言です。

しかし、この言葉には深い愛情が込められていました。

人は、誰かを自分の型にはめようとしてしまいます。

でも、本当に大切なのは、その人らしさを認めることなのかもしれません。

教育に携わる私自身、この言葉は胸に刺さりました。

教師もまた、

「普通」に合わせようとするのではなく、

「その子らしさ」を伸ばしていく存在でありたい。

そう思いました。

成瀬は成瀬のままでいい

シリーズを通して感じたことがあります。

成瀬は、無理に成長しません。

誰かに合わせようともしません。

でも、そのままで人を幸せにします。

それは、今の時代だからこそ、多くの読者が成瀬に惹かれる理由なのではないでしょうか。

「人と違っていてもいい。」

「自分らしく生きていい。」

成瀬は説教をしません。

ただ、生き方で教えてくれます。

ありがとう、成瀬

「これで終わりか。」

そんな寂しさがありました。

でも、それ以上に、

「作品に出会えてよかった。」

そんな気持ちが残りました。

シリーズ完結は本当に寂しい。

人は、自分らしく生きていい。

その姿は、きっと誰かの勇気になる。

ありがとう、成瀬。

またいつか、どこかであなたに会える日を、読者として静かに待っています。

「学力喪失」ー認知科学による回復への道筋

「学力喪失」ー認知科学による回復への道筋 今井むつみ著 岩波新書 2024年9月20日初版

『学力喪失』を読んで

― 認知科学が教えてくれた「学ぶ力」の正体 ―

今井むつみさんの『学力喪失――認知科学による回復への道筋』(岩波新書)を読みました。

この本は、いつもお世話になっている神戸大学の赤木先生に推薦していただいた一冊です。

読み終えて、まず思ったのは、

「ああ、子どもたちはここでつまずいていたのか」

ということでした。

これまで私たち大人は、子どもが分からないとき、

「もっと分かりやすく説明すればよい」
「何度も繰り返し練習すれば定着する」
「テストで点数が取れれば学力がついた」

と考えがちでした。

しかし、この本はその考え方そのものに問いを突きつけます。

子どもが本当に分かっていないのは、説明の量が足りないからではない。
練習が足りないからでもない。

もっと根本にあるのは、子どもの頭の中で、言葉や概念が実感と結びついていないこと。
つまり、**「記号接地」**ができていないことなのです。

「記号接地」というキーワード

この本で私にとって一番大きなキーワードになったのは、やはり「記号接地」でした。

記号接地とは、簡単に言えば、言葉や記号が、現実の経験や感覚と結びつくことです。

たとえば「1」という数字を知っていることと、「1」の概念が本当に分かっていることは違います。

「1」が分からなければ、「2」も「3」もあやふやになる。
「5」が分からなければ、「10」も分からない。
「10」が分からなければ、繰り上がりも分からない。

子どもが算数でつまずくとき、私たちはすぐに計算練習をさせようとします。

しかし、本当はもっと前のところ、つまり「数の概念」そのものが接地していないのかもしれない。

これは英語教育にもそのまま当てはまります。

単語を覚えた。
文法用語を知っている。
問題集では正解できる。

でも、それが実際の場面で使えない。

それは、知識がまだ身体化されていないからです。
生きた知識になっていないからです。

分かりやすく教えれば分かる、という誤解

本書を読んで強く心に残ったのは、

「丁寧に分かりやすく説明すれば、子どもは理解する」

という考え方そのものが、実は大人側の誤解かもしれないという点です。

もちろん、分かりやすく教えることは大切です。

しかし、それだけでは子どもの頭の中に生きた知識は生まれません。

母語を考えればよく分かります。

子どもは、日本語を文法説明によって覚えるわけではありません。
たくさん聞き、使い、失敗し、修正しながら、少しずつ言葉を自分のものにしていきます。

つまり、学びとは、外から知識を入れられることではない。

自分の中で、経験と結びつけ、試し、修正し、抽象化していく過程なのです。

スキーマの誤りをどう修正するか

認知科学では、学習のつまずきの大きな原因の一つを「スキーマの誤り」と考えます。

スキーマとは、ものごとを理解するときの枠組み、思い込みのようなものです。

子どもは何も知らない状態で授業に来るわけではありません。
むしろ、自分なりの見方、自分なりの解釈を持って授業に来ます。

そのスキーマが正しければよいのですが、誤っている場合があります。

そのとき、教師が正解を言っても、子どもの誤ったスキーマは簡単には修正されません。

大切なのは、子ども自身が、

「あれ、自分の考え方ではうまく説明できないぞ」

と気づくことです。

そして、

「なるほど、そう考え直せばよいのか」

と自分で納得することです。

これが、本当の意味での学びなのだと思います。

たつじんテストが示したもの

本書では、広島県教育委員会と関わって開発された「たつじんテスト」が紹介されています。

このテストの目的は、単に点数をつけることではありません。

子どもがどこで、何につまずいているのか。
なぜつまずいているのか。

それを明らかにするためのテストです。

ここが非常に重要です。

全国学力・学習状況調査も、本来は子どもや学校や自治体に順位をつけるためのものではないはずです。

むしろ、

「今の学習指導要領は子どもの実態に合っているのか」
「学校の授業は本当に子どもの理解につながっているのか」
「どこで記号接地が起きていないのか」

を見直すために使うべきではないかと思いました。

テストは、子どもを裁くものではありません。

子どもを理解するためのものです。

読解力とは、言葉を柔軟に調整する力

印象に残ったのは、空間を表す言葉に関する問題です。

これは単に語彙を知っているかどうかを見るものではありません。

文章に合わせて視点を変えられるか。
文脈に応じて言葉の意味を調整できるか。

そこを見ています。

よい読み手は、自分が知っている意味をそのまま押しつけません。

「この文脈では、この言葉はどういう意味で使われているのか」

と考えます。

一方、読むことが苦手な子は、自分の知っている意味を強引に当てはめてしまう。

だから文全体の意味が通らなくなる。

これは英語の読解でもまったく同じです。

単語の意味を一つ覚えて、それをどこでも同じように当てはめてしまう。
だから文の意味が崩れてしまう。

本当に読む力とは、知っている意味を並べる力ではなく、文脈の中で意味を調整する力なのです。

アブダクションという学び方

本書には「アブダクション」という言葉も何度も出てきます。

アブダクションとは、簡単に言えば、今ある知識を組み合わせ、類推しながら、もっともよさそうな説明をつくる推論です。

必ず正解にたどり着く推論ではありません。

だから間違うこともあります。

しかし、新しい知識を生み出すには、このアブダクションが欠かせません。

子どもは、実践し、失敗し、修正しながら学んでいきます。

その過程で、具体的な経験から抽象的な概念へと自分で上がっていく。

これが「ブートストラッピング」の学びです。

教師の役割は、正解を先に与えることではありません。

子どもが自分で仮説を立て、試し、間違い、修正し、もう一度考える場をつくることです。

私の英語授業とつながった

この本を読みながら、私は自分の英語授業を思い出しました。

私は授業で、いきなり文法説明から入ることはほとんどしません。

まずオーラル・イントロダクションでたくさんの事例を聞かせる。
口頭練習をする。
ペアワークで使わせる。
その後で、最後に文法を整理する。

これはまさに、暗黙から明示へ向かう授業です。

子どもが自分の中で、

「ああ、こういうことか」

と組み立てる。

具体例から抽象的な文法概念へ、自分で到達していく。

この流れこそ、生きた知識を育てるために大切なのだと、本書を読んで改めて確信しました。

文法は最初に説明されるものではなく、最後に腑に落ちるものなのかもしれません。

システム1とシステム2

本書では、人間の思考についても触れられています。

直感的で素早い思考がシステム1。
じっくり吟味し、論理的に考える思考がシステム2。

私たちは普段、システム1で素早く判断しています。

しかし、その判断はときに思い込みに支配されます。

だからこそ、システム2で自分の考えを見直す必要があります。

これはメタ認知です。

「自分は今、思い込みで判断していないか」
「この考え方で本当に合っているか」
「別の見方はできないか」

こう考えられる力こそ、本当の学力につながるのだと思います。

生きた知識とは何か

本書を読み終えて、私がたどり着いたのは、

学力とは、テストで高得点を取る力ではない

ということです。

本当の学力とは、自ら学ぶ力です。

自分の誤ったスキーマに気づく。
それを修正する。
新しい知識を既存の知識とつなげる。
必要なときに自然に使える。

そこまでいって初めて、知識は身体の一部になります。

これが「生きた知識」です。

そして、生きた知識を持った子どもは、自走できる学び手になります。

教師がいなくても学べる。
教科書が変わっても学べる。
社会が変わっても学び続けられる。

これからの時代に必要なのは、まさにこの力だと思います。

AI時代の教師の役割

生成AIの時代になりました。

知識を分かりやすく説明するだけなら、AIにもできます。

だからこそ、教師は「説明のうまい人」で満足してはいけないのだと思います。

大切なのは、

子どもがどう受け止めているか。
どこで誤解しているか。
どのスキーマがずれているか。
本当に概念の本質に届いているか。

そこを見ることです。

教師の仕事は、知識を流し込むことではありません。

子どもの中にある学びの芽を見つけ、
つまずきを見取り、
必要な足場をかけ、
やがてその足場を外していくことです。

最後に

『学力喪失』は、教育の本質を突きつける本でした。

「分かりやすく教える」ことに安心してはいけない。
「繰り返し練習させる」ことだけで満足してはいけない。
「テストの点数」だけを学力だと思ってはいけない。

子どもが本当に学んでいるか。

言葉や概念が、その子の経験と結びついているか。

知識が生きているか。

そこを見なければならない。

この本を読んで、私は改めて思いました。

授業は、明白な説明から始まるのではない。
暗黙の経験から始まり、子ども自身の中で概念が立ち上がっていくものなのだ。

そして教師は、その過程に寄り添う存在でありたい。

子どもが自分で学び、自分で考え、自分で修正しながら前へ進む。

そんな「自走する学び手」を育てること。

それこそが、これからの教育の中心にあるべきだと思います。

「裏庭での出来事」を指導して

パキスタン赴任後の道徳授業③

「裏庭での出来事」― 自分に嘘をつかない勇気 ―

イスラマバード日本人学校に赴任してから、中学1年生との道徳の授業が続いています。

生徒は男子1名、女子1名。

人数は少ないですが、その分、一人一人の考えや価値観がよく見えます。

そして今回もまた、生徒たちの心の動きがよく見える授業になりました。

最近、「神回中の神回」が続いていますが、今回もそんな授業でした。

◆ 「自分に嘘をつかずに生きられるか」

授業の導入では、こう問いかけました。

「自分に嘘をつかずに生きることはできますか。」

難しい問いです。

人は誰でも、本当はこうした方がいいと分かっていながら、周りの目や人間関係を気にして行動できないことがあります。

二人も少し考えながら、

「できると思う。」

「でも難しい時もある。」

と答えていました。

その答えが、今回の教材につながっていきます。

◆ 「裏庭での出来事」

今回扱った教材は、多くの道徳教科書に掲載されている名作教材

「裏庭での出来事」

です。

主人公は健(けん)。

友人の大輔、雄一と一緒に遊んでいるとき、学校の裏庭でガラスを割ってしまいます。

本当は先生に報告しなければならない。

しかし、大輔は

「黙っていれば分からない。」

と言います。

健は迷いながらも、その場では何も言えません。

心の中では「言わなければ」と思いながらも、大輔の言葉に流されてしまいます。

しかし最後には、自分の良心に従い、職員室へ向かい、本当のことを話そうと決意するのです。

◆ 残念なところ、素敵なところ

今回も本文を読む前に、

  • 健の残念だなと思うところに線を引く
  • 健の素敵だなと思うところに波線を引く

という課題を出しました。

すると面白いことに、

一人は

「残念なところはありません。」

と答えました。

もう一人は、

「ガラスを割ったことじゃなくて、先生に言いに行けなかったところ。」

と答えました。

なるほどと思いました。

問題は失敗したことではなく、

正しいと分かっていることを行動に移せなかったこと。

そこに注目したのです。

◆ 健はなぜ言えなかったのか

最初の発問は、

「先生に言わなければならないと分かっているのに、言えなかった健の気持ちはどうだったのだろう。」

でした。

すると二人とも、

大輔との関係に注目しました。

「大輔がちょっと支配的だった。」

「雄一だけが大輔に意見を言えていた。」

「健は大輔が怖かったんじゃないかな。」

そんな意見が出ました。

さらに、

「本当は言いたかったと思う。」

「でも面倒なことになるのが嫌だった。」

とも話していました。

正しいことをするのは簡単ではありません。

特に友達との関係があるときはなおさらです。

二人とも、そのことをよく理解しているようでした。

◆ なぜ職員室へ向かったのか

そして授業の中心発問。

健が最後に職員室へ向かう場面です。

私は尋ねました。

「大輔のことが気になるのに、職員室へ行こうと決めた健の気持ちはどうだったのだろう。」

すると二人とも、ほぼ同じことを言いました。

「もう言いなりになるのをやめたかった。」

「ここでけじめをつけたかった。」

「一からやり直したかった。」

私は思わず感心しました。

教科書的な答えではありません。

自分たちなりに健の心を考えた答えです。

そして、

「大輔との関係を断つ覚悟だったと思う。」

という意見まで出ました。

中学1年生とは思えないほど深い読み取りでした。

◆ ロールプレイで見えたもの

授業の最後にはロールプレイを行いました。

私が先生役。

生徒が健役と大輔役です。

「どうして今まで言わなかったんだ?」

「本当に君たちだけなのか?」

「大輔と雄一も連れてきてくれるか?」

そんなやり取りをしました。

大輔役の生徒は実に見事でした。

少し反抗的で、

責任を認めたくない様子をうまく演じてくれました。

一方、健役の生徒は途中で言葉に詰まります。

固まってしまう場面もありました。

それでも最後には、

「自分は正しいことを言います。」

「その後のことは考えずに言います。」

と言っていました。

その姿は、まさに健そのものでした。

◆ 自分に負けない

ロールプレイの後、

私は聞きました。

「もし同じようなことが起きたらどうする?」

二人とも即答でした。

「自分に負けたくない。」

「自分に嘘をつきたくない。」

そして、

「もともと流されるつもりはない。」

とも言っていました。

頼もしい言葉でした。

◆ 最高学年として

イスラマバード日本人学校では、

中学1年生の二人が学校全体の最高学年です。

人数は少なくても、

学校の顔であり、

下級生たちの目標でもあります。

今回の授業を通して、

二人の中には

「正しいと思ったことを貫くこと」

「自分に嘘をつかないこと」

の大切さがしっかり残ったように感じました。

◆ 授業を終えて

道徳の授業は、

正解を教える授業ではありません。

自分の心と向き合う授業です。

今回、生徒たちは健を通して、

「友達との関係」と

「自分の良心」の間で揺れる人間の弱さを考えました。

そして最後には、

自分の弱さに負けない生き方について考えることができました。

教師として、これ以上うれしいことはありません。

今回もまた、

私にとっては間違いなく

「神回中の神回」

でした。

これから学校の最高学年として歩んでいく二人が、

自分に嘘をつかず、

自分の信じる道を進んでくれることを願っています。

「いつわりのバイオリン」を指導して

パキスタン赴任後、最初の道徳授業

日本人学校に赴任して、初めての道徳の授業を行いました。

対象は中学1年生。

とても深い授業になりました。

「今回も神回だったな」

と。

◆ 正直に言えなかったことはない?

導入では、生徒たちにこう尋ねました。

「本当のことを言わなければいけないと分かっているのに、言えなかったことはありますか。」

二人とも少し考え込んでいました。

すぐには答えません。

でも、

「ある。」

と、小さく答えました。

その瞬間、今日の授業はうまくいくかもしれないと思いました。

◆ 名人フランツと弟子

今回扱った教材は、中学校道徳教材の

いつわりのバイオリン」

です。

物語の主人公フランツは、名高いバイオリン職人です。

ある日、有名な演奏家に渡すはずだった自分の作品が完成していません。

しかし、その時、弟子が作った見事なバイオリンがありました。

フランツは、その楽器が弟子の作品だと知りながら、

まるで自分が作った作品であるかのように演奏家へ渡してしまいます。

弟子は何も言わず去っていきます。

そして年月が流れます。

やがて弟子は故郷で工房を開き、一流の職人として成功します。

一方、フランツの工房は少しずつ寂れていきます。

そんなある日、フランツのもとに弟子から一通の手紙が届くのです。

そこには恨みの言葉はありませんでした。

「今の私があるのは、あの時あなたが教えてくださったおかげです。」

そう書かれていたのです。

◆ 残念だったところ、素敵だったところ

授業では本文を読む前に、

主人公の中で

  • 残念だなと思うところには波線
  • 素敵だなと思うところには直線

を引かせました。

二人とも一致していました。

残念だったところは、

「弟子のバイオリンを自分の作品だと偽って渡したところ」

でした。

やはりそこは許せない。

誠実さを失った場面だと感じたようです。

一方、素敵だと思った場面は、

弟子からの手紙を読んだ後、

フランツが深く反省し、ペンを取ろうとする場面でした。

過ちを認めようとする姿。

そこに人間らしさを感じたようでした。

◆ フランツはなぜ偽ったのか

最初の発問です。

「フランツは、いけないとわかっていながら、弟子の作品渡してしまったときの気持ちはどうだったのだろう。」

男子生徒は言いました。

「有名になりたかったから。」

とても素直な答えです。

女子生徒は少し違いました。

「間に合わなかったから仕方なかったのかもしれない。」

さらに、

「弟子の作品が有名になればいいと思っていたかもしれない。」

とも話しました。

同じ場面を見ても見え方は違う。

◆ 後悔の気持ち

次に聞きました。

「弟子が何も言わず去っていったとき、フランツはどんな気持ちだっただろう。」

すると、

「しまった。」

「取り返しがつかない。」

「謝りたい。」

という言葉が出てきました。

過ちは誰にでもあります。

しかし、本当に苦しいのは、

その過ちに気づいた後なのかもしれません。

◆ あなたなら何と書く?

授業の最後。

私はこう問いかけました。

「もしあなたがフランツなら、弟子にどんな手紙を書きますか。」

男子生徒は言いました。

「本当に申し訳なかった。」

「今頑張っていると聞いてうれしい。」

「これからも頑張ってほしい。」

「あの時のことは忘れない。」

謝罪と激励が込められていました。

女子生徒は、

「有名になったんだね。」

「ありがとう。」

と答えました。

恨みを超えた弟子への感謝を感じ取っていたのでしょう。

◆ 道徳の授業とは

授業後、参観していた先生から

「しぶい。」

と言っていただきました。

うれしかったです。

でも、それ以上にうれしかったのは、

二人が真剣に考えていたことでした。

正直であること。

誠実であること。

そして、

間違えたときにそれを認めること。

人は完璧ではありません。

だからこそ、

過ちの後にどう生きるかが大切なのだと思います。

◆ パキスタンでの最初の道徳授業

赴任して初めての道徳授業。

生徒はたった2人。

しかし、

人数の多さでは測れない学びがありました。

フランツの後悔。

弟子の寛容さ。

そして、人としての誠実さ。

それらを二人と一緒に考えることができました。

教師になって37年。

日本でも、海外でも、

やはり私は道徳の授業が好きなのだと思います。

今回もまた、

私にとっては

「神回」

次はどんな物語が、生徒たちの心を揺さぶるのでしょうか。私は今から楽しみです。