「一人称単数」村上春樹(文藝春秋)
「猫を捨てる」という短編集を読んでから、半年くらいで出版されたので、他の作品を読み返さなくても、村上春樹に餓えなくてもいいから、気持ちが楽だ。
村上春樹を読む時はいつもそうだが、終わってしまうのがもったいないので、読みたくても自分でリミットを決めて、そこまでしか読まないようにしている。なんなら、別の本も並行して読み、続けて読みたい欲求をその別の本にぶつけていることもある。
つまらない本は、「まだ50ページか!?」とため息まじりにページ数をたぐることも多いが、村上春樹の場合は、「あと100ページもある!!」と喜んだり、「あと50ページしかない!!」と嘆いたりすることもあるくらい、終わりを待ち望まない自分が居る。
今回も短編集である。8篇の作品が収蔵されている。
ご自身が経験されたような話や実際に聞いた話、どれも引き付けられるようなことが多い。女性についての話が多く、どれも面白かった。
俳句をしているバイト先で一緒になった女性、ピアノ教室で一緒に連弾をしたことのある女性、醜い女性、恥を知りなさいと罵る女性
不思議に自分の若い頃のことをたくさん思い出す。フラッシュバックしてくる。この物語の世界に入り込んでしまっている。しかし、主人公になるのではなく、物語の展開とともに歩いている主人公とは別人の自分が歩いている。しかも、自分の思い出を抱えながら、ストーリーと同一歩調で歩いている。フラッシュバックしている出来事が決してストーリーを凌駕することなく、自分がストーリーに入り込んでいくので、不思議な気持ちになる。
これは村上春樹の小説を読むときにいつも自分が味わう経験である。それが村上春樹が好きである理由なのかもしれない。
猿の話、スワローズの話、
私が大好きなお酒もたくさん出てくるし、クラシックも好きなのだが、ちょくちょく話に出てくる。猿は「ブル7」が好きらしい。私もブルックナーの交響曲第7番は好きだ。
全ての短編は「文學界」という雑誌で書かれたものが収録されているのだが、最後の「一人称単数」だけが書き下ろしであった。
「一人称単数」はとても変わった話である。ストーリーはおいとくとして、その話の主人公の中年男性(多分村上春樹であると思われるが)は、滅多に着ない高級スーツを着てバーで読書をしているときに、バーカウンターの奥にある鏡に写し出された、ここにいる鏡に写っているのはだれなのかという疑問に襲われる。「人生を生きてきて、分かれ道がいっぱいあった。右にも左にも行けた。自分でどちらに行くか選択したわけだが、どっちにも行けた。どちらでもよかった。時には、向こうから私を選択したこともあった。いろいろあったが、今私はここにいる。いったい私は誰なのだろう。」とこんな趣旨の語りがある。
私もわからなくなることがある。パイロットになるか先生になるかで悩んだことがある。先生になっていなかったら今の幸せな生活は存在しない。いろいろな道が複雑に入り混じっている。過去を肯定すると現在は存在しなくなってしまう。たくさんの枝のあるあみだくじを複雑に行ったりきたりしながら、当たりにたどり着いたようなもの。今いる自分は試行錯誤の連続で生まれた産物で、きっと将来の自分もたくさんの選択肢から自分の意思や強制力が働いて選ばれて出来上がった自分になるのだろうと思う。ただ、加齢とともに選択肢の本数は年々減っていくことだろうが。
おもしろかった。やはり、村上春樹である。